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ビジネスを変革する「可能性のコンピューティング」、量子コンピューター

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2018年10月5日、東京・目黒のホテル雅叙園東京で、経営戦略セミナー『量子コンピューティングはビジネスをどう変えるか?』が開催された。現在一般的に使用されているコンピューターを「古典的」だと位置づければ、「量子コンピューター」は、それとは比べ物にならないほどの演算能力を秘めている。具体的な適用範囲はまだ明確には定まっていないが、この能力にビジネス界での期待は大いに高まっている。量子コンピューターの普及により、企業は、そして社会はどう変わるのか。当日のイベントの模様を採録する。

まずはヤフーコーポレートエバンジェリスト/Yahoo!アカデミア学長である伊藤羊一氏が登壇し、基調講演『ビジネスの現場が一変する〜AI、データ活用の現状から量子コンピューターへの期待まで』を行った。伊藤氏は、「IT第3の波」が来ているとし、テクノロジーが発展していくプロセスでの「企業や組織の在り方」について熱弁。量子コンピューターがビジネスにもたらす大きな変革の可能性を示唆しながら、どれだけテクノロジーが進化しても、それを実際のビジネスに活用し、会社を経営するのはあくまでも人間であるとした上で、「固定観念から脱却し、未来を予測するのではなく、創る経営者になる必要がある」と語った。

伊藤羊一氏

基調講演を行う、ヤフーコーポレートエバンジェリスト/Yahoo!アカデミア学長の伊藤羊一氏

 

指数関数的にスケールアップする、圧倒的な処理性能

量子コンピューティングとは何か? 『量子コンピューターが拓く未来』と題したこの日の講演に登壇した日本IBM執行役員で、研究開発担当の森本典繁氏は、以下のように説明する。

そもそも「量子」とは、とても小さな物質やエネルギーの最小単位を指す。あらゆる物質を構成する「原子」、その原子を構成する「原子核」や「電子」、もっと小さな世界にある「陽子」や「中性子」、さらには「クォーク」のような素粒子なども量子に含まれ、「とても小さなミクロの世界にあり、そこでは我々の知っているような物理法則では説明しきれないことが起こる」という。

量子は「量子重ね合わせ」(観測した瞬間に状態が1つに決まること)、「量子もつれ」(複数の量子の状態が互いに相関を持つこと)、「トンネル効果」(通り抜けられないはずの壁をある確率で通り抜ける)といった不思議な性質(=量子効果)を持っていることで知られ、渡り鳥の方位検知、自然界の光合成、核融合といった「地球上で未解明な現象」も「これらの量子効果をひもとくことによって解明できるようになるかもしれない」と森本氏は語る。

「一般的なコンピューターの処理ではビットは0もしくは1の状態、つまりコインのオモテかウラのように2通りの状態しか表すことができません。『量子効果』の世界はコインをはじいて空中でクルクルと回転している『0と1の状態を併せ持つ状態』だと言い表すことができます」(森本氏)

では、そうした量子効果を観測・再現する–すなわち「量子を制御する」にはどうしたらよいのか? そこで登場するのが、量子力学を利用した「量子コンピューター」だ。

森本典繁氏

ゲート式量子コンピューターについて解説する、日本IBM執行役員/研究開発担当の森本典繁氏

森本氏がスライド上で示したのは、米IBM社が開発したゲート式量子コンピューターの写真。大きいシャンデリアのような形をしていたが、本体はごく小さな量子ビットチップ(超電導量子ビットと共振器のチップ)が搭載された基板であり、稼働時に発生する熱を冷却するために、シャンデリア部分は冷蔵庫のようになっていて、15ミリケルビン(約マイナス273℃)の低温に保たれている。

「ここに量子効果を再現する空間を作り、さらにマイクロ波で操作することで1量子ビット(量子コンピューターの能力単位)の量子効果を生成・観測・操作することが可能になったのです」(森本氏)

IBMではその後も研究・開発を続け、現在までに5量子ビットと16量子ビットの量子コンピューターをクラウド経由で無料公開している。IBM Qネットワークハブに参加すれば20量子ビットも利用可能だ。さらに、IBMの研究所では50量子ビットの量子コンピューターのプロトタイプを安定稼動に向けて調整中である。

「IBMではSummit(サミット)というスーパーコンピューターを開発しています。『古典的』なコンピューターの処理性能を4倍に向上させるには、このスパコンのクラスターが4つ必要になりますが、量子コンピューターは1量子ビット増やすごとに2倍、3量子ビットなら4倍、4量子ビットなら8倍ものパワーを得られる。エンジニアやサイエンティストたちにとって、指数関数的な処理性能のスケールアップが可能になるでしょう」(森本氏)

森本氏は最後に「日本IBMでは量子コンピューターをどのような領域に応用していけるか、アカデミアや産業界の皆さんとともに考えていきたい」と来場者に呼びかけ、講演を終えた。

 

量子コンピューティングのビジネス活用の先駆けを目指す、IBM「QVA」

続いて登壇したのは、日本IBM執行役員で、グローバル・ビジネス・サービス事業本部 戦略コンサルティング&デザイン統括の池田和明氏。講演のタイトルは『クオンタム・ビジネス 量子コンピューティングの可能性』。量子コンピューターが波及していく中での、ビジネスへの影響について解説した。

池田和明氏

日本IBM執行役員/グローバル・ビジネス・サービス事業本部 戦略コンサルティング&デザイン統括の池田和明氏

どのような領域で量子コンピューターの適用が可能なのか。現在、有望とされ、研究が進んでいる領域は、ロジスティクスや金融ポートフォリオの最適化、シミュレーションによる新材料や新薬の開発、そして機械学習の高速化の3つであるという。

池田氏は、ビジネスにおける量子コンピューティングの活用領域は、その3つだけにとどまらないと主張する。
そして「日本の主要企業の6割が、AI活用に欠かせない『データ』不足に直面し、『動かない頭脳』が急増している」との新聞報道を引き合いに出しながら、これから起こる「量子コンピューティングの新パラダイム」を次のように説明した。

「90年代にAI研究がブームになったとき、現実の事象や人間の判断をモデル化して、コンピューターに計算させるアプローチをとっていました。しかし、よく引き合いに出される『巡回セールスマン問題』のような単純な問題でも、総当りで答えをだそうとすると、場合の数が膨大になり、現在のスーパーコンピューターでも計算しきれなくなる、いわゆる『組み合わせ爆発問題』に直面してしました。そして、AI研究は一時下火になりました。その後、いわゆる『ビッグデータ』の時代となり、AIの研究は、人間へのインプット情報とその結果としての判断をデータ化してコンピューターに学習させるというアプローチに方向転換しました。それが成功し、現在のAIの興隆をもたらしました。言い方を変えると、今のAIはデータがなければ機能しないのです。

量子コンピューティングは、かつて失敗した現実の事象や人間の判断を『モデル化』し、回答を得るアプローチを可能にします。ビッグデータからのアプローチと掛け合わせにより、大きなパラダイムシフトが起きることでしょう。米IBM社の50量子ビットの量子コンピューターならば、2の50乗(1,125兆)通りの超並列計算が可能になります」(池田氏)

では、量子コンピューティングをビジネスに活かすためにどうすればよいのか。
「ビジネスの世界で量子コンピューターを適用するための第一歩は、事業環境や企業活動のモデル化と解くべき問題の定式化です。ハードウェアとして量子コンピューターと、ソフトウェアの研究は、かなりの勢いで進んでいます。しかし、『モデル化』と『定式化』の研究はまだまだ、これからです。冒頭に述べた現在有望とされている領域は、すでに有効性が認められたモデルが存在している領域です。私はそれだけでなく、企業がこの『モデル化』と『定式化』の能力を磨いていくことが、量子コンピューティングをビジネスに活用して、競争優位を得るための鍵になると考えています。そこで、社内プロジェクトを立ち上げ、この『モデル化』と『定式化』の研究をすすめています。

IBMでは、5年前にコグニティブ・バリュー・アセスメント(CVA)という取り組みを始め、企業における『AI活用』について、その適用領域を洗い出し、実現できたときのビジネスバリューを推計し、技術の進歩とあわせたロードマップを描いてきました。その結果、数多のユースケースを創出しました。そして今、『クオンタム・バリュー・アセスメント(QVA)』を始め、企業における量子コンピューティング活用の価値がどこで発揮できるのかを、お客様とともに検討し、お客様がクオンタム・アドバンテージを実現することに貢献していきます」(池田氏)

 

全ての可能性を「総当たり」し、ベストな解を導く

この日最後のプログラム、『徹底討論! 量子コンピューティング革命にどう備えるべきか』と題したパネルディスカッションには、4名のパネリストが登壇した。

左から桔梗原氏、伊藤氏、菊池氏、森本氏、池田氏

左から桔梗原氏、伊藤氏、菊池氏、森本氏、池田氏

まずはこの日最初プログラム、基調講演『ビジネスの現場が一変する〜AI、データ活用の現状から量子コンピューターへの期待まで』に登壇し、量子コンピューターを含めたテクノロジーが発展していくプロセスでの「企業や組織の在り方」について熱弁した、ヤフー コーポレートエバンジェリスト/Yahoo!アカデミア学長である伊藤羊一氏。

2人目は2000年に創業、ナビゲーションサイトやアプリの運営・開発を行う、ナビタイムジャパン取締役副社長 兼 最高技術責任者である菊池 新氏。そして、日本IBMの森本氏、池田氏の両名だ。

パネルディスカッションでは、モデレータを務めた日経BP総研 フェローの桔梗原富夫氏の進行のもと、量子コンピューターの可能性について改めて言及された。

その中盤、池田氏は講演でも話題にした「量子コンピューティングによる高速化&総当たりの価値」について述べ、それを受けたナビタイムジャパンの菊池氏も「当社が行う経路探索はサービスの特性上、ユーザーからのインプットに対して数秒単位で答えを返さなければならないため、探索範囲を絞っている。それを総当たり方式にすれば、もっと最適な解を提供できるだろう」と、量子コンピューターへの関心を示した。

菊池 新氏

ナビタイムジャパン取締役副社長 兼 最高技術責任者の菊池 新氏

この日の森本氏・池田氏両名の講演を聴講した伊藤氏も「総当たり」の可能性について大きな関心を寄せる。既存のAI解析との違いについて伊藤氏から問われた池田氏は「総当たり」についてさらなる解説を加えた。

「将棋を例にするならば、これまでのAIは、過去の棋譜をAIに読ませ、その中で勝ちやすい打ち手にスコアを付けて、それに基づいてさしていました。さらにAI同士で対戦させて、新たな棋譜を積み上げ、そこからも学習し、さらに強くなっていくというもの。量子コンピューティングでは、ゲームの論理そのものをモデル化し全ての可能性を総当たりするようなアプローチが可能になります。ビジネスにおいて、このような総当りの価値が存在する領域がどこなのか、検討を進めています」(池田氏)

 

大学・企業との共創をめざす「IBM Qネットワークハブ」

森本氏はパネルディスカッションの中で、量子コンピューティングに関する日本IBMの活動について改めて説明した。

日本IBMではアカデミアや産業界とともに、量子コンピューターの具体的な用途を探索する研究を進行中だ。2018年5月17日には、慶應義塾大学理工学部矢上キャンパス内に量子コンピューター研究拠点「IBM Qネットワークハブ」を開設。ここにはJSR株式会社、株式会社三菱UFJ銀行、株式会社みずほフィナンシャルグループ、三菱ケミカル株式会社が参画し、それぞれの企業から集められた開発者たちが、米IBM社の量子コンピューターの実機にクラウド経由でアクセスし、産学連携の共創による研究・開発を行っている。(プレスリリース: 『慶應義塾大学の量子コンピューター研究拠点・IBM Qネットワークハブに日本の4社が参画』

「例えば、金融界のリスク計算の手法としてアセットのリスクを分析、さらに統計的に計算をして、最終的にどのくらいのリスクファクターがあるかを決める『モンテカルロ・シミュレーション』というものがありますが、既存のコンピューティングでは限界があります。そうした計算においても量子コンピューターの適用範囲について企業の皆様と研究中です。また三菱ケミカル様とは、分子物理学への適用範囲の研究として、原子のまわりを回る電子の軌道計算を量子コンピューターで行い、エネルギーの安定点をシミュレーションしています」(森本氏)

また、これまでの「古典的」なコンピューターでの常識に縛られず、量子コンピューターがある前提でビジネスに活用できる「クオンタム・ネイティブ」な人材の育成もこのプロジェクトの肝だという。

こうしておよそ3時間のイベントは終了。パネルディスカッションの最後に、伊藤氏と菊池氏は「量子コンピューターへの期待」「IBMへの期待」として次のように述べた。

伊藤羊一氏

ヤフー コーポレートエバンジェリスト/Yahoo!アカデミア学長の伊藤羊一氏

「これからの日本をつくっていくために、若い人たちのみならず、経営に携わる皆様のような方々がとても重要であると考えます。量子コンピューターの理屈について詳しくある必要はありませんが、こうしたツールが世の中の課題を解決するというイシューをしっかりと立て、社会課題解決に向けて実行する力を持つことが求められるのではないでしょうか。IBMはテクノロジーの領域において世の中でムーブメントを起こし、とりわけ経営者に対して『一緒に考えませんか?』と問いかけを行ってきた企業。量子コンピューターの分野でも活躍を期待しています」(伊藤氏)

「1年ほど前に森本さんとお話をさせていただく機会がありましたが、そのときは『5年後かも知れないし、10年後かも知れない』と、量子コンピューティングの展望についてお話をされていました。今日、皆さんのお話を聞いてみると、1年前とだいぶ状況が変わっていた。それだけこの分野は急加速で進歩しているのだと実感しました。AI(Watson)やスパコン(Summit)などの研究を進めているIBMには、量子コンピューターと他のテクノロジーとの間の部分を埋め合わせ、シームレスにつないでくれる、そんなサポートにも経営者として期待しています」(菊池氏)

テクノロジーにやってきた「量子コンピューティング」という新たな潮流–。従来の古典的なコンピューティングとの役割を住み分けしつつ、企業経営者がこの流れにどのように立ち向かうのか、今、その手腕が試されている。