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Smarter Business

企業間の情報連携が開く、保険業界「デジタル変革第2章」の扉

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遠藤毅郎 氏

遠藤毅郎 氏
日本アイ・ビー・エム株式会社 グローバル・ビジネス・サービス
アソシエイト・パートナー
保険事業ソートリーダー

17年間の外資系保険会社勤務を経て、‘01年 日本IBM入社。保険業界向けの商品・サービス構造改革、収益最適化などのビジネス・コンサルタントとして、さらに ‘07年からは内外保険業界の調査・分析・洞察・提言を行う保険事業ソートリーダーとして、特にグローバルでの保険業界におけるコグニティブ・コンピューティングなどのテクノロジーを活用したビジネスモデル変革を徹底研究し、事業価値の最大化を目指す保険業のお客様を強力に支援。

 

遠藤毅郎 氏

山田敦 氏
日本アイ・ビー・エム株式会社
技術理事 IBM AIセンター長
データサイエンティスト・プロフェッションリーダー
工学博士

1995年日本IBM入社。東京基礎研究所にて、主に3次元形状処理の研究に貢献。コンサルティング部門に異動後、2009年に新設された「先進的アナリティクスと最適化」チームのリーダーを現在まで務めると共に、データ・サイエンティストとして、データとAIを活用したお客様の変革を多数支援。2017年にデータサイエンス領域をリードする技術理事(IBM Distinguished Engineer)に任命。2019年にIBM AIセンター長に任命。主な出版物は、『IBMを強くした「アナリティクス」-ビッグデータ31の実践例』(監訳、日経BP社、2014年)、データサイエンティスト・ハンドブック(近代科学社、2015年)。IBM Academy of Technologyメンバー。

 

遠藤毅郎 氏

岡村周実 氏
日本アイ・ビー・エム株式会社 ビジネスシンクタンク日本リーダー 兼
事業戦略コンサルティング・グループ パートナー

日本企業・政府部門の成長戦略に係るコンサルティングを担当。先端テクノロジーや官民・異業種連携により、新たな産業の創生を図るプロジェクトを多数支援。慶應義塾大学卒。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス 行政大学院 および パリ政治学院 公共政策大学院の修士課程修了。

 

IBMによって実施された「グローバル経営層スタディ 」では、デジタル時代における企業の優位性を確立する源泉として、「信頼」というキーワードに焦点を当てている。企業内外のデータの有効活用が求められる中、ここ数年でより一層の信頼性の獲得が企業の課題となっている。

保険業界も例外ではなく、今後の消費者・生活者のニーズ変化に対応するために、企業間でのデータの共有ニーズがますます高まっていくものと考えられる。一方で、業務を通じて得られる膨大な情報・データを保有する保険会社は、金融機関として一般の事業会社と異なるガイドラインのもと、個人情報の適正な取扱いの確保が求められている。こういった、データ利活用とプライバシー保護の両立、という大きな課題を乗り越えるための先進テクノロジーとして日本IBMが注目するのが「Federated Learning(フェデレーテッド・ラーニング)」だ。「統合型機械学習」とも呼ばれるこの技術がもたらす保険業界へのインパクトとはいかなるものか。そして、そこから生じる保険の新たな価値と、業界のパラダイムシフトとは。

日本IBMにて10数年にわたり保険事業ソートリーダーを務める遠藤毅郎氏、同社のAI技術を牽引するIBM AIセンター長 山田敦氏、同社の事業戦略コンサルティング・グループの岡村周実氏の三人が、最新のAI技術の持つ可能性を探りながら、保険業界の今後について語った。

 

情報連携は、保険業界のデジタル変革を加速させる

岡村 日本の保険業界のデジタル変革は、第1章から第2章の時代に入ろうとしています。InsurTech(インシュアテック)(※注1)という言葉が注目され、業界全体のデジタル化が進んでいます。そんな中、保険会社各社はこれまで以上に「個客」(※注2)と呼ばれる個々のお客様に対し、新しい価値を提供していく姿勢が求められています。

第1章においては、個人や企業のファイヤーウォールの外側にあるデータによる変革が中心でした。第2章では、個人や企業がファイヤーウォールの内側に保有する機微情報や機密情報といった、よりクリティカルなデータを活用しながら新たな価値を創造するといった変革が主流になります。

一方、保険業界には個人情報に関する法規制・ガイドラインがあり、保険加入者情報を第三者に対して目的外で使用したり、流通させたりといったことが禁止されています。これが「個客に対して新しい価値を提供する」際に、一つの壁となっているのではないでしょうか。

遠藤 確かに、個人情報保護法他関係法規制では、あらかじめ本人の同意を得ることなく、保険加入者等の個人情報を目的外で利用することは禁じられています。一方で、2017年5月30日全面施行の改正法で、個人情報の利活用に関する規制緩和の方向性から「匿名加工情報」が導入されました。さらに今回の3年ぶりの見直しでは、個人情報と「匿名加工情報」の中間的位置付けの「仮名加工情報」というものも新設されようとしており、さらなるデータ利活用に関する規制緩和の動き(※注3)も見られています。

しかし保険会社に関して言うと、保険のガイドラインや業界団体の指針との関係で、どこまで自由に活用できるようになるのかはまだ疑問な部分もあり、むしろアングルを変えた大胆な施策が必要であると感じています。

岡村 2019年の2月には、金融庁の規制緩和により保険会社がIT企業を100%子会社化できるようになりました。世界中で保険業界が、デジタル技術を使った破壊的創造を起こしつつある中で、日本の保険会社もこれまで以上にテクノロジーを活用した対応を取っていかなければなりません。

(※注1)InsurTech(インシュアテック):保険(Insurance)とテクノロジー(Technology)を組み合わせた造語。2017年5月に経済産業省が公開した「FinTechビジョン」では、「保険分野における FinTech」と定義されている。

(※注2)個客:個人を単位とした、個別のお客様。商品やサービスを販売する対象としての「顧客」とは異なる。

(※注3)個人情報保護法の改正:今回の見直しでは、保有個人データに関する規定が改定され、「情報の利用停止等の権利の導入」「仮名加工情報に関する規定の新設」「個人情報の漏えい発生時の監督当局への報告の義務化、罰則の強化」などが改正案に盛り込まれた。

 

企業間における情報連携のカギを握る「Federated Learning」

岡村 データの利活用を更に進めるには、これまでのように自社の持つデータだけでなく、他社が持つデータも含めて「解」を求めるような世界への移行が必要です。ただ保険業界には、先に議論に出た壁があります。これを技術的に解決しようとしたら、どのような手法、あるいは考え方が適用できるでしょうか。

山田 企業間情報連携、つまり企業間におけるデータの共有は、論理的には可能でも、現実にはほぼ不可能です。法律の問題や会社の信用がありますし、また競争優位性確保という観点でも、よほどの理由がない限り企業は大切な固有データを社外に出すことはしません。そのため、これまでは他社と情報連携したいと考えても実現に至るケースは極めて稀でした。

この課題に対して、ブレークスルーを起こす技術として注力しているのが「Federated Learning」です。この技術は、元データは開示せずに、そのデータから機械学習のモデルを作り、それを社外に共有するものです。手法には様々なバリエーションがありますが、代表的な手法の概念を、理解し易いイメージ図に示します。

保険業界における企業間情報連携のカギを握る「Federated Learning」

たとえば、A、B、C、Dという4つの会社があったとします。まず各社それぞれが持っている固有のデータから機械学習のモデル(図ではy=ax+b)を作ります。それをクラウドに送り、4社の統合モデルを算出する。この方法により、各社は個人情報や機密情報を社外に送ることなく、精度の高い予測モデルの恩恵を享受できます。

この方法は、自社だけではデータに偏りがあるケースへの対処に有効です。例えばA社は関東地方のデータを多く所有し、B社には関西地方のデータが多いといった場合、情報には偏りが生まれます。もちろん性別や年齢の違いでも偏りは生じます。これはモデルの信頼性という面で懸念点となりかねない。その点、自社以外の会社のデータも使ったモデルがあれば、入力データの偏りを抑えられます。いわゆる「信頼できるAI」を実現するという意味でも、Federated Learningには可能性があります。

岡村 Federated Learningのユースケースとしては、どのようなものがあるのでしょう。

山田 銀行業界の例で言うと、まずはアンチマネーロンダリング(AML)などの非競争領域での活用が考えられます。マネーロンダリングはどこの銀行にとっても悩みの種です。業界全体で協力し、この問題に対応していこうという目的です。そのほかに医療の領域では、治療や創薬の開発のために病院間での情報連携が考えられます。どちらも保険業界と同じくデータの開示に関して規制の厳しい業界ですが、Federated Learningなら互いにデータを共有することなく、精度の高いモデルの恩恵を享受できます。

遠藤 お聞きしていると保険業界でも、銀行業界におけるマネーロンダリング対策のように、不正検知の分野で活用できそうです。入口である保険契約時、出口である保険金の支払い、それぞれの場面でFederated Learningが活用できるのではないかと考えられます。

 

保険商品はパーソナライズ化し、個客と企業の関係は変化していく

岡村 業界全体のリスクやコストを削減する、そういった非競争領域では十分に活用の可能性があるということですね。

では競争領域ではどうなのでしょうか。情報の垣根を超えた新しい価値を創造する文脈において、より付加価値の高い保険商品を生み出すなど、Federated Learningを生かせる領域があるような気がするのですが。

遠藤 新しい価値の創造ということで、重要なポイントの一つとして保険業界を取り巻く環境変化があると考えています。それは、激増する「自然災害リスク」や急速に進行する人口減少・少子高齢化による「長生きリスク(健康・金・孤独)」の増大などで、消費者・生活者一人ひとりのリスクへの意識が高まっていることです。また低金利・マイナス金利のおかげで有益な保険商品が影を潜める中、社会保険料負担の増加などがさらに重くのしかかってくる訳です。当然、家族環境・地域性など様々な個別の事情によってペインポイントも異なり、リスク自体も大きく変わってきます。

こうなってくると、若者のみならず様々な世代でのデジタル・ネイティブ化する消費者・生活者は、自ら積極的・能動的に、リスク低減・コスト削減を実現させようとする意識が高まるものと考えられます。そこで、保険会社による個客に応じたリスク対応の支援が、まさしく競争領域における新しい価値の創造ということになるのです。

保険業は、病気や事故などのリスクへの備えとしての保障/補償が中心であったところから、リスクの予防・軽減へシフトしつつあります。具体的には、高度技術を活用した重症化予防や防災・減災への取り組みへの展開です。こういった展開が進むなかで、例えば生保会社内に蓄積されているお客様の既往歴や診断書情報等の医療関連データと、(外部の)ライフイベントやヘルスケアなどのデータを融合させることで、先進保険商品・サービスの開発を期待したいところです。

しかし実際には、保険会社が異業種企業と同一顧客に関する情報を相互に共有して、新たな保険商品を作ろうとした場合、保険加入者情報を社外共有することは、今までの議論の通り極めて難しい。ただ、そのようなケースにおいても、この Federated Learning の技術は大きな役割を果たすことになるのかもしれません。

山田 これまでは個人と企業の間で、個人が利便と引き換えに自分の個人情報を個別に企業に提供することが当たり前に行われてきました。データ活用を、業種や企業をまたいだ情報流通へと更に押し進めようとすると、実質的にそのような運用は、遠藤さんのおっしゃる通り難しいでしょう。しかしこのFederated Learningの技術が進んでいけば、個人情報の詳細を共有することなく、事業革新と顧客利便を実現できる可能性があります。個人と企業との間の「信頼」関係を再定義する意味で、大変重要な技術といえます。

遠藤 これだけ様々なリスクに直面するなかで、保険サービスへの期待も増大するでしょうし、さらにそれがより自身のニーズに見合ったものになっているかが重要になってくるでしょう。こういった傾向は、必ずしもデジタル・ネイティブ化した消費者・生活者のみならず、あらゆる人々に広まっていくことでしょう。結果として、皆それぞれ、「自分なりの納得感」を追求するようになるものと考えられます。

実際、今までの保険は、保険会社の方が商品の詳細を把握していて、消費者・生活者の側にはあまり情報がない、と言う「情報の非対称性」が存在していたと言われています。しかし、今ではそれが崩れ始めていて、将来的には逆転するかもしれないという見方もあります。そういった個客の行動変容に的確に応えられる保険会社こそが、「信頼」関係の醸成に成功するものと考えられます。

岡村 そうなると、顧客側から自らの情報を提供して新たな保険を組成させるDemand Aggregation(デマンド・アグリゲーション:需要集約)的な動きも生まれてきますね。たとえば遺伝子検査で同じ結果が出た人同士が集まって、「将来危惧される疾患を付保する商品を作ってほしい」と、自分たちの側から保険会社に自らの大切な情報を持っていくことすら起きるかもしれません。

ここで得られるデータは、保険会社にとっても大変な資産や財産となります。そのため、情報をきちんと評価して、付加価値の高い保険商品を作れるように準備をしておかなければなりません。ここはFederated Learningが生きる場面だと思われます。

 

AIエコシステムがもたらす、日本企業の新たな競争力

岡村 これまでは保険業界に限らず、企業側が主体となって顧客との関係性構築を図ってきましたが、これからは個客自身が企業との関係性を構築するといった方法も一般化していくでしょう。

ところで、日本IBMは昨年末「お客様をさらなるAI活用の未来に導く」ための新体制としてIBM AI センターをスタートしました。センター長を担う山田さんの立場から、AIを用いてどんな未来を築いていこうとしているのか聞かせてください。

山田 目指していることは、とてもシンプルです。データとAIを使って日本企業を再び世界で輝かせたい。そのためにIBMの技術力や組織力を最大限に活用し、企業全体で信頼できるAIを本格活用できるようにお客様を導く。今回フォーカスしているFederated Learning技術も、それを具体化させるためのツールの一つです。

そもそもAIは、データから学習し、設定した問題に対する答えを提案する技術です。学習データの量が多ければ多いほど、より精度の高い答えが期待できます。GAFAがデジタル業界を牽引してきた理由は、桁違いのデータを自社内に持っているからです。それに対して日本の事業会社が、GAFAと同等のデータを自社単独で持つことは極めて難しいでしょう。

それでは、日本企業のAIはGAFAに比べてデータが少ないから駄目なのかというと、活路はあると信じています。Federated Learningは、まさにその活路を開く考え方の一つです。これにより企業の枠を超えて知識を融通し合う仕組みが形成できれば、日本の産業全体がAIを中心としたエコシステムによって活性化されるはずです。そういった仕組み作りを目指したいと考えています。

 

社会のニーズと技術から考える保険業界のこれから

岡村 こうして考えていくと、保険業界というのは課題が明確にあり、進むべき方向性も見えているというように感じます。テクノロジーや、その活用による変革のシナリオが、他の業界以上にはっきりしていて、それらが今後重要な役割を果たしていく。

その実現のためにも、“企業主導”で展開された商品を消費者・生活者が選択するという従来のパラダイムから脱却し、個客の個別のニーズに企業が対応していくという“個客主導”の考え方に変わっていかなければなりません。そしてそれに応じて、事業経営システムや組織の在り方も変化を求められるでしょう。

遠藤 確かにそうですね。保険業界には、人生100年時代が叫ばれるなかでの「長生きリスク」や、今までとは異なるレベルでの自然災害やデジタルの領域における新たなリスクの出現など、ビジネス機会が広がっています。一方で、若者のクルマ離れ、また今後のMaaSの普及による保有自動車数の減少、さらに、「保険は売られるもので買われるものではない」と言われた今までの販売モデルが通用しなくなってきているなどの逆風環境もあります。

既にさまざまな戦略的取り組みにチャレンジしている保険会社各社も、顧客が直面するリスクへの対応に対して、より「個客」に応える支援を実現することが求められているのです。

最後に。ただでさえ不確実であった時代に、追い打ちをかけるように発生した国難とも言えるコロナショックと緊急事態宣言。リスクの終息はいつになるのか、日本経済の先行きはどうなるのか、これまで以上に不透明さが増した世界で、保険業界へも、多面的に大きな影響が生まれることでしょう。しかし、いかなる状況であっても、「個客」に応える支援を追求することで、新たな未来を生みだせるのではないでしょうか。

*本鼎談は2020年2月26日に収録したものです。鼎談関係者に関しては、取材前14日間におけるコロナウイルス感染者が発生した特定国への渡航歴、また、咳、くしゃみ、鼻水、発熱などの症状がないことを確認した上で、新型コロナウイルスの感染拡大防止に最大限配慮して行いました。