量子コンピューティングの展望
携帯電話をどこかに置き忘れたことはないだろうか? 車の中か、会社か、スーパーで落としたか、とあれこれ思い悩んだに違いない。あるいは、簡単なアプリケーションを使って携帯電話の正確な場所を調べたこともあるかもしれない。この時、本当に知りたい情報は「正確な場所」であって、「あるかもしれない場所」ではない。我々の住む世界では、位置は明確に定義でき、この問題もクラウド上のアプリで簡単に解決できる。
しかし、位置の概念さえもあいまいな量子の世界で、状態間を遷移する1つの電子の影響を追跡しなければならないと考えるとどうだろうか? 電子が辿った可能性のあるあらゆる状態を、量子的に捉える必要があり、頭を抱えることになるだろう。このような状況において、化学システムのモデリングに量子コンピューターを使用することの威力が発揮され始めるのである。
巨大分子における量子力学的エネルギー計算を行う際、電子の動きなどを含めたありとあらゆるパラメーターを用いて計算をしようとすると、その計算は、従来のコンピューターでは手に負えないものとなる。そのため、産業上重要な多くの分子モデリングを用いた計算では不正確さが増したり、正確な解が出るまでに膨大な時間がかかったりする。
化学工業は、米国において国内総生産の7%(5.7兆米ドル)を占め、約1億2千万人もの雇用を生み出している。新たな化学製品を開発するためには、費用も時間も掛けて研究を行う必要がある。現在でも、従来の化学シミュレーションは実験の役に立っているが、分子間相互作用の複雑性が増すにつれて、計算精度が低下するという課題がある。
こういった問題に対する解決能力という点で、量子コンピューティングが古典コンピューターよりも優れているのはなぜか?
量子の威力
分子の反応を理解するためには、分子の電子構造を明らかにすることが不可欠である。水素(H2)よりも分子量の大きい分子の場合、電子間相互作用や核効果などを正確に捉えて分子を数学的に記述しようとすると、大きい分子ほど複雑になる。実際、電子間相互作用の完全な計算を従来のアルゴリズムで実行すると、計算量は分子量の増加に対して指数関数的に増えてしまう。しかし、量子アルゴリズムを用いる場合、その性質から、計算量は多項式的な増え方になると予測されている。このことから、現時点では正確な実行が不可能と考えられている分子の計算が、将来的には可能になると期待されている。
例えば、単純な炭化水素、ナフタレン(C10H8)は、116量子ビット以下でモデル化できるが、古典コンピューターでは同じ処理に1034ビットが必要になる。ちなみに、1034ビットとは、2025年までに保存されると予測される全データ量(約175ゼタバイト)の71億倍である。
量子コンピューティングは、化学物質の設計方法や、炭化水素の精製方法、石油貯留層の発見や採掘の方法を変革する可能性がある。さらには、今後数年のうちに、新しい化学製品開発における市場投入サイクルを短縮させ、厳格化する環境規制をふまえた投資戦略を再立案し、利益に直結するような輸送、精製、化学プラントのプロセスなどの複雑なシステムの最適化を可能にするかもしれない。
いずれは、量子コンピューターによる貯留層シミュレーションや地震探査処理も可能になるかもしれない。つまり、量子コンピューティングが、石油・化学業界を根本から変革することが予想されるのだ。
著者について
Lynn Kesterson-Townes, Global Cloud & Quantum Leader, IBM Institute for Business Value, IBM ConsultingDavid Womack, Global Director of Strategy and Business Development, Chemicals and Petroleum industry
Spencer Lin, Global Research Leader, Chemicals, Petroleum, and Industrial Products, IBM Institute for Business Value
Jeannette M. Garcia, PhD, Research Staff Member, IBM Research
Bob Parney, PhD, IBM Q Industry Consultant, Chemicals and Petroleum, IBM Consulting
発行日 2020年11月1日