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科学で化学をミライする「AIによる未知の材料開発で持続可能な未来」

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対話ロボット、音声アシスタント、自動運転や「討論するAI」。こうした多くの目に見えるAI応用に加え、目に見えないところでのAIの応用も活発になっています。その一つが「マテリアルズ・インフォマティクス」であり、これは専門家の経験と勘に頼っていた材料開発を、データ、ハイパフォーマンス・コンピューター、AIといったITシステムを活用し加速させる研究分野になります。

IBMリサーチでは、この「マテリアルズ・インフォマティクス」にハイブリッド・クラウド、AI、量子コンピューティングなどのITイノベーションを応用し材料発見のプロセスをさらに10倍速くすることを目標に「マテリアル・デザイン研究」を進めています。このブログでは、IBMリサーチのマテリアル・デザイン研究の中でもAIを使った材料デザインに焦点をあて、科学がどのように私たちの未来に関わるのかを解説します。

なぜ材料開発が注目されるのか?

SDGsの達成と持続可能な社会の実現に向け、今、材料開発が注目されています。材料は、実はとても身近な存在です。スマートフォンに搭載されている小型で寿命の長いバッテリー、割れないガラス、電気を通すプラスチック、燃えない壁紙、発熱する繊維、錆びない鉄など、私たちの生活に欠かせないモノや生活を豊かに便利にするモノは、何らかの材料からできています。

地球温暖化対策のため二酸化炭素を吸収するコンクリートの開発なども進んでいますが、このような取り組みを加速する材料を早く複数発見することができれば、より良い未来へとつながっていきます。

電球のフィラメントのイメージしかしこれまで材料開発は、理論と実験、研究者の経験と勘、そして偶然によって大きく左右され、時間とコストがかかるという大きな問題を抱えていました。たとえばトーマス・エジソンが発明した電球のフィラメントは、世界中から取り寄せた約6000種類の材料ではなく、たまたま実験室にあった竹が良い結果を出したことから材料を竹に絞りこみ、次に世界中の1200種類の竹を使って実験を重ね、最終的に日本の竹を使って製品化したと言われています。こんな偶然と遭遇することは稀です。
研究者の経験と勘、そして偶然に依存している状況を、ITによって解決しようという取り組みがマテリアルズ・インフォマティクスです。

マテリアルズ・インフォマティクスには世界が注目しています。米国では2011年に2億ドルの予算で「Materials Genome Initiative (MGI)」を推進することを発表、欧州では2015年にNovel Material Discovery Laboratory、中国では2016年に北京マテリアルズ・ゲノム・エンジニアリング・イノベーション連盟を設立。日本でも 2015年に物質・材料研究機構(NIMS)を中心に研究拠点が設立され、材料メーカーだけでなく自動車・医療・石油・航空宇宙産業・IT・建築関連など幅広い企業が取り組んでいます。

IBMリサーチでは、マテリアルズ・インフォマティクスにハイブリッド・クラウド、AI、量子コンピューティングなどのITイノベーションを応用し材料発見のプロセスを10倍速くすることを目標に「Future of Computing – マテリアル・デザイン研究」を推進しています。深い専門知識を持つ研究者チームが、関連する以下の4つの技術領域に取り組んでいます。

  1. AIにより材料文献から情報を抽出して整理する「ディープサーチ」
  2. 材料特性を予測・試験するための「AI強化シミュレーション」
  3. AIで新しい候補材料をデザインするための「生成モデル」
  4. AIを活用して効率よく材料を合成する「自動化ラボ」

IBMリサーチは、ノーベル賞を受賞した走査型トンネル顕微鏡や高温超伝導といった発明や半導体素材など材料科学分野での長い歴史や豊富な経験を持っています。ITイノベーションと融合したマテリアル・デザイン研究は、IBMだからこそできる分野とも言えるでしょう。

専門家とコラボレーションできるAIをめざして

元素の周期表のイメージプラスチックや液体など私たちの身の回りにある材料は全て原子や分子から構成され、「硬さ」や「色」といった物質の性質は原子が繋がって構成される分子の形によって決まります。この「求める性質」を持つ分子の形を考え、発見することが「材料デザイン」です。すでに存在が知られている数十億個の分子と、ほぼ無限に近く存在するまだ存在が知られていない分子の中から求める性質を持つ「形」を発見するためにはAIやITの活用は必然であったと言えるでしょう。

IBMリサーチのマテリアル・デザイン研究の中で、AIを使って新しい候補材料をデザインするための「生成モデル」のプロジェクトをリードしているのが東京基礎研究所の武田征士研究員です。武田が率いるチームが開発したAI分子生成モデルは、世界的な機械学習・データサイエンスの国際会議であるKDD 2020(Knowledge Discovery and Data Mining)に論文が採択され学術的にも高い評価を受け、世界各国のお客様の課題を解決や実践的なツールとして産業応用されるなど、実験を中心とするこれまでの材料開発とは全く異なる手法で材料デザインを革新しています。

武田 征士 IBM東京基礎研究所 マテリアル・デザイン研究 プロジェクト・リーダー

武田 征士 IBM東京基礎研究所 マテリアル・デザイン研究 プロジェクト・リーダー 光インターコネクトの研究開発などを経て、AIによる新物質発見技術のプロジェクト戦略立案ならびにグローバル・チームによる複数のプロジェクトを率いる。

「学術界で最先端と言われるAI分子生成モデルは、分子構造をデザインする部分に変分オートエンコーダー(VAE)や敵対的生成ネットワーク(GAN)などのディープ・ラーニングの手法を用いたディープ生成モデルです。しかしそのほとんどが、AIとしての新規性が高いものの、現場視点からの実用ツールとして作り込まれたものは、少なくとも公には知らされていません。また、ディープ・ラーニングが持つ特性からくる難点により、化学の現場での実利用にはいくつかの障壁があるというご指摘を多くのお客様からいただいていました(東京基礎研究所 武田征士 研究員)」

その難点とは、説明性・調節性・データ量の3点です。プロセスがブラックボックス化されていて一連の構造がなぜ生成されたのかが不明という説明性の低さ、生成される構造に対し化学の専門的見地から原子のレベルで制約や修正を与えるなどの細かなチューニングができないという低い調節性はディープ・ラーニングならではの顕著な特徴です。そして、ディープ生成モデルが機能するために必要な数万〜数100万件の学習データは論文をすべて集めても得ることができない非現実的な量でした。こうしたプロセスを、すべてAIの専門用語やコーディングにより実施しなくてはならない点も、実ユーザーである化学者にとって大きなハードルでした。

「そこで我々は、50社ほどの材料・化学メーカーのお客様の声を反映し、3つの難点を解消したグラフ理論をベースとするAI生成モデルを作りました。この生成モデルの大きな特徴は、分子をデザインする部分が数理的なアルゴリズムによって既に構成済みであることです。このため、大量のデータを必要とせず、ユーザーが膨大なデータセットを用いた数日間にわたる学習も必要ありません。

またアルゴリズムの特性から、分子構造の表現方法や構造生成のプロセスが具体的に理解できる形式になっているので、化学の専門的見地から細かい調整を取り入れることが可能です。モデルやデータセットの入れ替えやワークフローの組み替えといったAI特有の試行錯誤にも容易に対応できるように設計し、実際の材料開発で必要となる複雑なデザインも、ユーザーの希望にあわせて柔軟にカスタマイズできる仕様になっています。

研究を研究で終わらせず実社会で役立つ研究にするためには、ユーザーの視点に立ち専門知識を取り込みながらAIとうまくコラボレーションできるかを考えることが分野を問わず必要だと考えます。(東京基礎研究所 武田征士 研究員)」

Augmented Intelligence(知の拡張)で持続可能な未来を

IBMマテリアル・デザイン研究の中心的なテーマは「人間の能力・知の拡張」——Augmented Intelligenceです。「ディープサーチ」は1日に何万件もの科学論文から情報を抽出し整理して、科学者が注目すべき重要な洞察を導き出します。専門家である人間が理解でき、モデルから洞察を得ることができ、また人の洞察を反映させるための調整も可能な「グラフ理論をベースとしたAI分子生成モデル」は、説明可能なAIの一つの形と言えます。

サスティナブルな植物のイメージIBMマテリアル・デザイン研究の他の3つの技術分野と連携することで、文献からの過去のデータ、シミュレーションからの計算データ、自動化されたラボからの実験データなどを取り込むことでモデルを強化し、より創造性に富んだAIへと進化してゆける点も、重要な特徴であり強みです。「AI分子生成モデル」は、数時間で何千もの新しい材料の候補を生み出し、アイデアの生成プロセスを10倍以上速くすることができますが、そこには常に機械と人間の科学者のパートナーシップが必要です。

科学は色々な可能性を秘めています。人工知能技術(AI)が人をサポートすることで、これまでの常識や人の想像の域を超えた全く予想もしない未知の材料をデザインすることができたら、地球温暖化やパンデミックなどの深刻な課題を解決し、誰もが幸せに暮らせる持続可能な社会の実現を加速してくれるかもしれません。

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髙橋 志津
著者:髙橋 志津
日本IBM 研究開発 Leader of Think Lab
Technology & Social Engagement
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