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量子コンピューティング時代の到来―私たちの世界はどう変わるのか

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高精度な長期的天気予報。複雑な分子の動きを研究することで発見された救命薬。化石燃料によって引き起こされる気候変動を止めることに役立つ、新たな合成炭素吸収素材。電気自動車に電力を供給し、電力系統にグリーンエネルギーを蓄えるための、安定し、かつ長時間駆動するバッテリー。

それは、夢のようなことに思えるかもしれません。しかし、多くの科学者は、量子コンピューティングの時代では、これらのブレイクスルーにつながる可能性があり、現在のコンピューターが扱う領域を超えた、他の大きな問題解決にも貢献する可能性があると予測しています。

量子コンピューティングは新しいアイデアではありません。しかし、実用的な技術が理論に追いついてきたのは、最近のことです。

IBMは2016年に、クラウド経由で利用できる量子コンピューターを一般公開しました。外部の研究者やデベロッパーがその可能性を探ることができるようになったという点で、これは量子コンピューターにおける真の転換点と言えます。そして、2019年9月にIBMにQuantum Computation Centerが開設されたことで、業界はさらに大きな一歩を踏み出しました。現在稼働している15台のシステムには最先端の量子コンピューターも含まれており、外部からも利用可能です。

科学者は、量子コンピューターの可能性に興味をそそられています。あるアナリストは、スマートフォンが直近の10年間で世界を変えたように、量子コンピューターが2020年代の世界を変えると予測しました。

コラボレーションの重要性

Quantum Computation Centerは、IBMの量子コンピューティング向けオープンソース開発プラットフォームであるQiskitを軸とした急成長しているコミュニティや、IBM Q Networkと呼ばれるコラボレーションを通じて、約100社のIBMのお客様や学術機関、20万人以上の登録ユーザーに最先端技術へのアクセスを提供しています。これらの取組みを通じて、IBMやお客様は、それぞれが抱える最も複雑な課題に対して、量子コンピューティングをどのように活用すべきかを模索するとともに、この新しい技術を扱えるようにするためのトレーニングを行っています。

教育の促進と次世代の育成は、IBMの注力事項の1つであり、この一環として、上述のQiskitやインプレッション数150万以上、総視聴時間1万時間を誇る動画シリーズ「Coding With Qiskit(Qiskitでコーディング)」のような教育ツールへのアクセス促進を図っています。また、IBM Researchの研究員や大学教授など、この分野の専門家が執筆したオープンソースの教科書も公開しており、執筆した大学教授は実際の授業において教科書の一部を使用しています。

IBM Q Networkには、エクソンモービル、ダイムラーJPモルガン・チェース、アンセム、デルタ航空、ロスアラモス国立研究所、オークリッジ国立研究所、ジョージア工科大学、慶応義塾大学、スタンフォード大学のQ-Farmプログラム、三菱ケミカルなど多数の企業、団体が参画しています。

IBMは昨年、東京大学およびドイツのフラウンホーファー研究機構との提携を発表しました。この提携により、現時点でも広範といえる量子研究者のネットワークが、さらに世界中に広がります。コンピューティングの歴史を振り返れば、世界中のクリエイティブな方々が、誰も予測できなかったこれらのシステムの用途をきっと見いだすであろう、ということが分かると思います。

現段階では、量子コンピューティングが雇用や経済にどのような影響を与えるかを予測することは困難です。しかし、調査会社のガートナーは、「2018年に量子コンピューティングに関するプロジェクトへ予算を確保した組織は1%未満であるが、2023年までにその数は20%へと増加する」*と予測しています。

IBM Q Network内でアプリケーション・リサーチのディレクターを務めるケイティ・ピッツォラート(Katie Pizzolato)に、「量子の未来にどうやって到達するのですか?」と問いかけたところ、「最先端の量子システムと開発プラットフォームを構築し、それを世界中で利用できるようにすることで、到達できるようにします」と回答しました。

量子コンピューティングは何が違うのか

量子コンピューティングは「古典的な」デジタル・コンピューティングとどのような違いがあるのでしょうか。従来的なコンピューターでは、2つの電気的状態(オンまたはオフ)にしか情報を残せないトランジスタが使用されています。つまり、バイナリのコンピュータ・コードが1または0で表され、従来的なコンピューティングは2進数またはビットであると言えます。

量子コンピューティングは、全く異なります。これは、科学者が亜原子粒子の動きを研究し始めた20世紀初頭に登場した量子物理学の分野に由来しています。

彼らが発見したことは、多くの科学者に衝撃を与えました。簡単に言うと、亜原子粒子は2つの場所、つまり2つの状態に同時に存在することができ、これまで受け入れられていた物理世界の法則に逆らうものです。これが「量子重ね合わせ(superposition)」です。また、2つの遠く離れた粒子が、光の速度よりも速く、即座に情報を共有することができることも発見されました。これが「量子もつれ(entanglement)」と呼ばれるものです。(参照:量子コンピューターとは

これを奇妙に感じ、信じられないと思うかもしれませんが、そういうことなのです。量子力学の分野の先駆的科学者の1人であるニールス・ボーア(Niels Bohr)は、「量子理論にショックを受けていない人は、まだそれを理解できていない人だ」と言っています。

バイナリのその先

この亜原子の現実は、コンピューティングにおいて深い意味を持っています。従来的なコンピューターで使用されているバイナリ(0と1)は、コンピューターで実行できるタスクの種類、それらのタスクを実行できる速度を制限します。

量子ビットは、量子コンピューターの基礎になるもので、この1または0のバイナリ制限から解き放たれます。また、ビットとは異なり、量子ビットは複数の状態にも同時に存在できます。これにより、指数関数的な量の情報を処理できる可能性があるのです。

量子ビット数が少ない量子マシンは、古典的な512ビットコンピューターと同じくらいの情報しか処理できません。しかし、プラットフォームは指数関数的な性質を持っているため、力関係は急激に変わります。完全に安定性があると仮定すると、300量子ビットは観測可能な宇宙にある原子の数よりも多くのデータ値を表すことができます。これにより、従来的なコンピューターの範囲をはるかに超えた複雑な問題を解決することができます。

IBM Researchのダリオ・ギル(Dario Gil)は「量子コンピューターの美点は、単純な0と1、イエスとノー、真と偽といった、バイナリを越えた問題をより繊細に考える方法を提供することです。これは、最終的に特定の答えが出ないというわけではありません。しかし、量子コンピューティングによって、古典的なバイナリ・コンピューティングでは迅速に解決できない、世界で最も複雑な問題の多くに立ち向かうことができるようになるのです」と述べています。

量子コンピューティングが私たちにもたらしてくれること

量子コンピューターは、現在のどのコンピューターよりもパワフルなものです。しかし、それによって実際にどのような問題を解決してくれるのでしょうか。また、量子コンピューターを利用して、科学者は何をしているのでしょうか。

最も重要な量子の実用化はもう何年か先のことだと一般に言われています。しかし、研究者らは、実用化が有望なものがいくつかあるとしています。

気候変動
量子コンピューティングは、気候変動のマイナスの影響を逆転させる、斬新かつ意欲的な計画をもたらす可能性があり、大気中からの炭素除去の効率的な方法をもたらします。

そのためには、科学者は、炭素原子が他の元素とどのように相互作用するかについて、よく理解することが必要です。研究者たちは、最良の結合が可能な組み合わせを見つけるまで、各炭素原子の軌道をまわる8個の電子が、他の無数の分子に存在する電子とどのように相互作用するかを観察し、モデル化する必要があります。

クリーン・エネルギー用として多くの電力を蓄えるバッテリー
クリーン・エネルギーが浸透する未来の基本的な構成要素のひとつが、電池です。今日の電池は電力消費が早すぎます。また、要求を満たせるくらい十分な充電量を保持することもできません。また、時には不安定になることもあります。現在最も使用されている電池の種類であるリチウムイオンは、世界的に供給量が減少している金属であるコバルトに依存しています。

電気自動車などの用途には、より優れた電池が必要になります。電力会社も太陽光と風力によるエネルギーを貯蓄するためによりよい電池を必要としており、それにより、たとえば、太陽が出ていないときや風が吹かない状況に対処できます。

ケイティ・ピッツォラートは「未来の電池を作るためには、根本的に異なる化学反応を見つける必要があります。量子コンピューティングにより、電池の化学反応を効果的に見ることができ、より優れた電池を実現するための素材と化学反応をより良く理解することができるようになるでしょう。」と述べています。

化学への新たな洞察
薬品、あるいはエネルギー効率よく製造される化学肥料(化学肥料製造には大量のエネルギーが必要で、二酸化炭素排出に悪影響を与えています)のような材料のブレイクスルーにつながる可能性があります。

この種の発見を引き起こす触媒は、化学におけるほぼすべての進歩の本質です。しかし、原子同士が相互に作用することは無限かつ複雑なため、ほぼすべての化学のブレイクスルーは、偶然や直感、あるいは数えきれないほどの数の実験によってもたらされてきました。量子コンピューティングは、この作業をより速く、より体系的に行うことができ、医療、エネルギー、材料等の分野における新しい発見につながります。

ポートフォリオ管理
金融機関が、リスクヘッジに使うポートフォリオと価格オプションのバランスを取るために量子コンピューティングの利用を模索していることは当然のことかもしれません。数多くの連続的に変化する変数の処理は複雑であり、正しい価格が判明するまでに1日要することがよくあります。

量子コンピューティングは、このような計算を数分で行うことができます。つまり、これらのデリバティブをほぼリアルタイムで売買できる可能性があるのです。JPモルガン・チェースなどの一部の銀行では、この実現に向けた量子計算のテストをすでに行っています。

消費者にとっては、自宅を購入するための貯金や大学向け資産プランの育成、安心して退職するための資産形成のいずれにおいても、リスクが低く収益性の高い金融商品が重要になる可能性があります。

暗号化
暗号技術は、量子において非常に注目を集めている分野です。これまでの議論の多くは、新しいクラスやコード解析の危険性についてでした。しかし、量子コンピューティングによる、より安全なデータ・プライバシー・システムの登場というトピックが、新たな浮上してきています。

どちらにせよ、真のブレイクスルーは、おそらくすぐに登場するわけではありません。

最も洗練されたデータ・セキュリティ・ソフトウェアは、従来的なコンピューターでは解読に長時間必要なパスワードを生成するために、複雑なアルゴリズムを使用しています。量子は、このパラダイムを完全に覆す恐れがあり、現在の暗号化を実質的に無効化します。4半世紀前に作成されたShorのアルゴリズムと呼ばれる量子コンピューターのアルゴリズムは、今日の暗号の中で最も強力なものでさえも理論的には解読することができます。しかし、Shorのアルゴリズムを使うためには、まだ存在していない、何年も先にできるであろうフォールト・トレラントな量子コンピューターが必要です。

それでも、現在のサイバーセキュリティ基準が時代遅れになる可能性があることは、政府の注目を集めました。例えば、アメリカ国立標準技術研究所は、潜在的な危険に耐えうる新しい暗号化ツールの開発にむけたコンペを行っています。

量子との約束を果たすためには何が起きる必要があるか

量子コンピューティングへの関心は急激に高まっていますが、現実世界での実用化を伴ったブレイクスルーはおそらく数年先になるでしょう。

1つの理由は、亜原子物質の不安定さです。量子ビットは極めて繊細であり、小さな乱れでも量子状態はこわれてしまいます。
。それが、量子コンピューターが絶対零度よりもわずかに高い温度、つまり宇宙空間よりも低い温度に保たれる理由です。物体は、冷たいほど効果的に安定するからです。この温度でも、量子粒子は通常、 ほんの一瞬だけ重ね合わせのままになります。

量子ビットの重ね合わせ状態をより長く保つ方法を見つけることは、科学者がまだ克服しなければならない大きな課題です。

ピッツォラートによると、次の主要ベンチマークは、現在技術的に可能な時間よりも長く量子状態を維持できる「論理的量子ビット」の実装が成功するかどうかであるということです。論理的量子ビットは、量子計算の実用性を図る真のテストであるフォールト・トレランスに必要です。IBMの他のメンバー同様に、ピッツォラートはそのタイムラインを予測することは控えていますが、論理的量子ビットの実装は、今後10年以内に実現する可能性が高いとみています。

もう一つの未解決の問題は、経済的問題です。量子コンピューティング時代の到来は、数十年後の仕事の数やカテゴリー、質にどのような影響を与えるのでしょうか。現時点で、1つの業界における量子コンピューティングの与える影響が、最終的にどれくらいの規模になるのかを説明することは困難です。しかし、現在、量子コンピューティングに関わるほぼすべての組織内で大きなスキル・ギャップがうまれており、有望な人材の獲得に苦労しています。

2019年初頭に法制化された米国量子イニシアチブ(National Quantum Initiative)は、このスキル・ギャップを埋めるために連邦基金を提供することを目的としています。しかし、長期的なソリューションとしては、IBM Q Networkが可能にしたような実践的なトレーニングが不可欠です。

量子コンピューティングの時代はゆっくりと進展するかもしれませんが、インターネットも、本当に革命的な力として確立されるその数十年前から存在していたことを思い出してみてください。そして、インターネットのように、研究者たちは今、量子コンピューティングを用いて私たちが想像できないような世界を切り拓こうとしています。

ピッツォラートは「IBMと世界中のパートナーが行っている量子コンピューティングへの取組みにこそが、数年後に直面するグローバルな大きな課題の解決につながるのです」と述べています。

*Gartner,Top10Strategic Technology Trends for2019:Quantum Computing,March2019

※この記事は米国時間2020年1月16日に掲載したブログ(英語)の抄訳です。

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