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「状態保全支援システム」の先に見据える東急電鉄の鉄道メンテナンスDX

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矢澤 史郎氏

矢澤 史郎氏
東急電鉄株式会社
広報・マーケティング部 広報CS課 課長
(プロジェクト当時は、鉄道事業本部 技術戦略部 イノベーション推進課 課長)

総務部、広報部を経て2013年に鉄道事業本部へ。駅設備管理、人事・教育系業務を担当後、2015年からは電気系部門の企画セクションで現場業務の効率化など、さまざまな事業課題の解決に従事。2019年4月から技術戦略部 イノベーション推進課の課長として、鉄道事業のイノベーションを目指す幅広いプロジェクトを推進。2023年4月より現職。

 

犬塚 真一氏

犬塚 真一氏
東急電鉄株式会社
鉄道事業本部 技術戦略部 イノベーション推進課
課長

駅の研修経験を経て鉄道事業本部へ。土木系技術員として東横線渋谷駅の地下化工事などを担当した後、工務部門安全担当、経営戦略総括担当、子会社総務担当などを経て、2015年からは電気系部門の企画業務に従事。2017年から工務部門の保全業務、運輸部門の駅務機器・駅設備業務を経た後、2023年4月より現職。

 

前野 良輔氏

前野 良輔氏
東急電鉄株式会社
鉄道事業本部 技術戦略部 イノベーション推進課
課長代理

駅・乗務員の経験を経て鉄道事業本部へ。2010年より車両系部門において東横線・副都心線相互直通運転プロジェクトの工程管理に従事。車両系部門の現場経験を経て2015年より運転・車両部門の統括セクションにて、組織運営に関する業務を担当。2020年11月からはイノベーション推進課に所属し、コロナ禍後の新しい働き方を実現すべく業務の効率化・高度化に資するさまざまな取り組みを推進している。

 

吉田 究

吉田 究
日本アイ・ビー・エム株式会社
IBMコンサルティング事業本部 航空・運輸・旅行サービス事業部
アソシエイト・パートナー

航空・鉄道・運輸・旅行業界において20年以上の経験をもち、最上流のグランドデザインから、ビジネス分析、要件定義・パッケージシステムのfit&gap、設計から稼働保守までの一貫したシステム開発、大規模基幹系システムのプロジェクト運営等、幅広いシステムインテグレーション技術を使ってお客様を支援している。

東京都区部南西部から神奈川県東部にかけて鉄道事業を展開する東急電鉄株式会社(以下、東急電鉄)は、鉄道設備の保全業務の変革を目指し、日本アイ・ビー・エム株式会社(以下、IBM)と共同で「状態保全支援システム」を構築。鉄道設備のモニタリング保全や故障リスク評価の可視化を実現し、2023年4月より順次稼働を開始しました。同システムの概要およびその将来に向けた世界観や構想について、プロジェクトを主導してきた東急電鉄とIBMのキーパーソン4名に語り合っていただきました。

東急電鉄DXの“始発駅”と位置付けられる状態保全支援システムの構築

――東急電鉄の事業の動向についてご紹介ください。

矢澤 2022年に100周年を迎えた当社は、2023年3月に相鉄線と直通運転する「東急新横浜線」を開業し、JR新幹線へのダイレクトなアクセスを実現するなど、現在もお客様の利便性向上に努めています。
一方、3年間に及ぶコロナ禍の影響を受け、厳しい経営環境が続いています。2023年度に入ってお客様の数はかなり戻ってきましたが、コロナ禍以前の水準までは回復していません。加えて、生産年齢人口の減少に伴う影響など将来にわたって続く環境変化を捉え、構造変革による事業基盤の強靭化を図らなければなりません。

――そうした中で進めているのが、状態保全(CBM:Condition Based Maintenance)支援システムの構築なのですね。

矢澤 そうです。当社は中期事業戦略の一環として、テクノロジーを活用したオペレーション変革を掲げ、鉄道版インフラドクターの導入や、田園都市線地下区間5駅のリニューアルプロジェクト「Green UNDER GROUND」におけるCBMによる空調設備などの効率的な運用などに取り組んできました。鉄道設備の保守業務をデジタル技術によって最適化し、さまざまなデータを有効に活用することで鉄道事業のDXを推進していこうとしています。状態保全支援システムはその“始発駅”と位置付けられています。

――状態保全支援システムとはどのようなものなのか、概要を教えてください。

矢澤 遠隔で取得した鉄道設備に関するデータを蓄積・分析することで、設備の状態やリスクを可視化します。これにより従来の時間基準保全(TBM:Time Based Maintenance)と比べ、現地検査の見直しによる業務の効率化、夜間作業の負担軽減、データに基づく円滑な技術伝承といった効果が期待されます。また、適切な設備更新計画の策定・実行によるコスト抑制、故障の未然防止による運行品質の維持・向上を目指します。

――非効率な業務、無駄な作業を解消することだけが目的ではないのですね。

矢澤 その点は誤解されがちなのですが、そもそもTBMがあらゆる保全業務において非効率というわけではありません。設備の中には年に1回点検すれば十分なものもあります。CBMの対象となるのは、電流や電圧、振動など状態の変化を連続的に見ることで、故障やトラブルの予兆を捉えることができる設備です。設備保全業務の効率化と品質向上を、高レベルで両立させるための仕組みづくりとご理解ください。

犬塚 鉄道事業で最も優先すべきは“安全”であり、それは今後も変わることはありません。ただ、コロナ禍以降に固定費の低減が強く求められている中で、安全を保つためには保全業務の抜本的な変革が不可欠です。少子高齢化により今後ますます深刻な問題となる保全業務の担い手の減少にも備えなくてはなりません。すべてを人に依存することなく安全を保つための仕組みとして、今回の状態保全支援システムがあります。

図1 CBMにおいて想定される対象設備機器例出典:「The DX Forum」での講演資料をもとに作成

 

電子化しただけではデータではない?――実感した最初の壁

――状態保全支援システムの構築にあたり、パートナーにIBMを選んだ理由を教えてください。

矢澤 RFP(提案依頼書)を公開したところ、重電メーカーや機械メーカー、ITコンサルティング系など、多数の提案がありました。特に重電メーカー系のベンダーは自身も鉄道ビジネスを手掛けており、豊富な業務知識を持っています。これに対してIBMは、鉄道ビジネスについて特別な知見を有しているわけではありませんが、現場から取得した純然たるデータから導き出したさまざまなファクトと、私たちの鉄道ビジネスの知見を融合することで、現状の把握や将来の予測をしていくという非常にスマートな提案をいただきました。
データ解析・分析サイドのデジタル手法と、技術部門が長年にわたり培ってきたアナログ手法を突き合わせることで、新たな洞察や発見が生まれてくるという確信を得たことが、パートナー選定の決め手となりました。

前野 付け加えると、IBMの提案は、我々が目指すことや成すべきことを確認する、構想策定に重きを置いたものでした。「要望を示してくれたら作ります」ではなく、「共に考え、共に汗を流して、今ないものを一緒に作り出していく」という姿勢に共感しました。

――IBMとの協業により、具体的にどんな気づきがありましたか。

前野 もともと私たちもさまざまな設備からデータを収集しており、CBMにもそれなりに対応できるだろうと考えていたのですが、それは甘い思い込みでした。あらかじめしっかりフォーマット定義がなされたデータでなければ、分析に耐えられないことをわかっていなかったのです。「電子化されていれば、データだろう」くらいの認識しかなく、CBMはおろかデータ分析の一合目にすら届いていなかったことに気づかされました。

吉田 IoTの仕組みを通じて取得する生の時系列データは、当然のことながら設備ごとに粒度がバラバラで、そのままでは設備機器のマスターデータとIoTデータを、またIoTデータ同士を突き合わせることもできません。これらの生データをまず分析に適した形式に整える必要があります。これがCBMの本質である「データ・ドリブンの保全業務」を実現する上での最初の壁となることを、私どもからもお伝えしました。

図2 本取り組みで判明した本質的な課題出典:「The DX Forum」での講演資料をもとに作成

 

鉄道設備の状態モニタリング機能とリスク評価の機能を実装

――今回、どのようなシステムを構築されたのですか。

前野 実装した機能は大きく2つあります。
1つ目が状態モニタリング機能です。月1回など定期的にしか確認できていなかったデータを遠隔から連続的に取得し、監視を続けます。レールを切り替える転てつ機(ポイント)を対象に、異常が出たら即座にアラートを発します。さらにアラートの頻度や重要度に応じて、現地に作業者が赴いて対応する必要があるかどうか、現場の判断を支援します。
2つ目が各設備のリスクを評価する機能で、こちらは転てつ機に加えて軌道(レール)も対象としています。評価のポイントには縦・横の2つの軸があり、横軸に置いているのが設備のコンディションです。過去からの累積でどれくらいの切り替えを行ったのか、またこれまでどんな異常を検知したか、使用年月も考慮に入れつつ、経年劣化や疲労劣化の度合いを推定します。さらに縦軸では、設備固有の重要性に対し重み付けを行っています。これらの観点に基づいて、個々の設備にどれくらいのリスクが潜在しているのかを導き出していきます。現時点でのリスクを把握するとともに、将来のリスク予測も可能です。

――設備固有の重要性に対する重み付けとは、どんな基準で行っているのですか。

前野 たとえば1つの路線の中でも都心に近づくほど輸送密度が高くなり、設備故障による影響は大きくなります。また転てつ機に注目しても、営業路線内に設置されて常時稼働しているものと、車両基地内で1日に数回しか利用しないものでは自ずと影響範囲が異なります。あくまで一例ですが、こうした運行上の観点に基づいて重み付けを行っています。

犬塚 逆に言えば、重み付けがなされていなければ無数にある設備を均等に監視することになるため、的確な保全アクションに結び付きません。その意味でこの取り組みは、今回の状態保全支援システム構築における核心の1つと言えます。
とはいえ、最初から各設備の正確な重み付けを行うのは困難であり、システムを運用しながら適宜見直しをしていく必要があると考えています。また、ダイヤ編成やお客様の乗車動向などによっても重み付けは変わるため、状況に応じて設定を柔軟に変更できる仕組みを考慮しています。

――IBMは課題解決に向けてどのような提案をしたのですか。

吉田 お話があったとおり、東急電鉄様と議論を重ねる中で、最優先で実装すべきという結論に至ったのが各設備の状態モニタリングとリスク評価の2つの機能です。これを実現するため、広範な路線に分散している設備から遠隔で収集したIoTデータをAmazon Web Service(AWS)上に蓄積し、SPSS Modelerを用いてリアルタイムの予測分析を行う仕組みを提案しました。
データの入力から加工、蓄積、リスク評価モデリング、出力(可視化)まで一連の作業をサポートし、なおかつ柔軟に重み付けの変更がしやすく、分析のプロセスが組織の資産となり、今後のデータ・ドリブンの保全業務や鉄道DXへの取り組みを牽引していく社内人材の育成にも寄与するという点で、高いご評価をいただけたと自負しています。

――とはいえ実際のシステム構築には多くの苦労があったと拝察します。

前野 前述した「電子化しただけではデータではない」という話とも関連するのですが、収集したデータが何を意味しているのか、背後で起こっている「事象」と紐づけられていないと分析はできません。たとえばある設備から一時期にスパイク的な電流の上昇が検知された場合も、さまざまな原因が考えられます。当該設備に対して手動でメンテナンスを行っていたケースもあり、一概に故障とは決めつけられないのです。
こうした設備ごとのデータの変化と多様な事象のパターンとの紐づけは本当に苦労しました。IBMのデータ・サイエンティストに実際の設備の稼働データを見ていただき、その一つ一つに対して設備保守担当者の見解・知見をすり合わせつつ、正常・異常の判断を行うという地道な作業を重ねてきました。

吉田 似たようなデータが大量に検出される中から特異なものを抽出するのは、本当に地道な作業となります。検出したデータが単にしきい値から外れているだけで故障と判断することはできません。この見極めを誤ると、現地に赴いた保守要員に無駄な作業を発生させてしまいます。より重大なのは異常を正常と誤認してしまうことで、鉄道の安全性にも大きな支障を及ぼすおそれがあることから、IBMとしても収集したデータをわかりやすく可視化し、保守現場を含めたプロジェクトメンバー全員でさまざまな事象と紐づけて検証できる「リスク・マトリックス」の仕組みをつくるなど、慎重を期してきました。

図3 画面サンプル(ご参考:故障リスク評価)出典:「The DX Forum」での講演資料をもとに作成

 

設備ごとに縦割りされた保全業務から脱却する

――2023年4月に稼働を開始した状態保全支援システムは、現時点でどんな成果をもたらしていますか。

前野 稼働を開始したといっても実質的にはまだトライアル中ですので、具体的な効果や成果を示せるのはこれからとなります。ただ、今回のプロジェクトを通じてデータ・ドリブン・メンテナンスとはいかなるものかという感覚が、少しずつ社内メンバーに浸透しつつある手応えを感じています。

犬塚 まさにそのとおりで、状態保全支援システムのトライアルを開始したことで技術戦略部と保守部門をはじめとする社内の連携はもとより、協力会社や同業他社との連携も拡大しています。このシステムがフックとなってコミュニケーションが広がっている実感があります。周知のとおり現在は複数の鉄道会社間の相互乗り入れが進んでおり、すなわちデータ・ドリブン・メンテナンスは東急電鉄だけの課題ではなくなっています。そうした中で必須となる鉄道会社間の“共通言語”として今回のシステムが役立ち、首都圏の鉄道事業者全体のDXの発信源となっていく、そんな将来にも思いをはせています。

――状態保全支援システムの今後に向けた構想や計画をぜひお聞かせください。

矢澤 次のテーマとして目指すのが、設備ごとに縦割りされている保守業務からの脱却です。鉄道システム全体を捉えると、レール上を車両が走行しているわけですが、その車両に対して動力を供給している電力網があり、レールや付帯設備を通して車両との間でさまざまな制御信号をやりとりしています。そうした多様な設備のデータを状態保全支援システムに統合し、複合的な分析を行えるプラットフォーム化を目指します。

犬塚 現在の転てつ機とレールのみにとどまらず、車両制御データや変電所、高圧ケーブル、ホームドア、構造物(駅舎・橋梁・トンネルなど)、駅構内空調、駅務機器(自動改札機)などの設備も監視対象に広げていくことを想定しています。そうした中から各設備に起こる異常や故障の相関関係が見えてくれば、これまでのような電気部門や保線部門といった担当領域を越えた、より合理的な保全業務のあり方やベストプラクティスが見えてくると考えます。

吉田 東急電鉄様の目指す世界観や基本思想は、IBMもしっかり共有しています。多様な設備を柔軟に取り込み、相関関係を見いだしながら複合的な分析を行うプラットフォームを実現する上で、特に重視しなければならないのは汎用性の確保です。AWSとSPSS Modelerをベースに構築した状態保全支援システムはその発展に耐えうる柔軟な拡張性を備えており、IBMは今後も東急電鉄様と足並みをそろえながら真の鉄道メンテナンスDXを見据えた取り組みを支えていきます。