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コグニティブが実現するパーソナライズ医療。IBM金子達哉インタビュー

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2016年4月、日本IBMはヘルスケアとライフサイエンス・製薬企業向けの事業を統合し、「ヘルスケア・ライフサイエンス事業部」として新たなスタートを切った。産官学連携による新規ビジネス立ち上げ支援など、医療・製薬分野における付加価値の創出にとどまらず、「人」に関わる課題、例えば、高齢化、労働力人口減少に伴う人材確保難という課題にもコグニティブ・テクノロジーは光を当てる可能性を秘めている。

「医療・ヘルスケア×Watson」で、どんな未来を描くことができるのか。「ヘルスケア・ライフサイエンス事業部」3部門の統括責任者を務める日本IBMの金子達哉に、これまでの取り組みと今後の展望を聞いた。

金子 達哉
日本アイ・ビー・エム株式会社 グローバル・ビジネス・サービス事業 ヘルスケア・ライフサイエンス事業部 パートナー 事業部長

米国の大学で経営学・会計学の学士を取得後、プライスウォーターハウス株式会社に入社。プライスウォーターハウス、プライスウォーターハウスクーパース、IBMを通じて、国内、海外を併せ多くの製薬企業対象のプロジェクトを経験し、プロジェクト・マネージャーを担当。研究開発、サプライチェーン・マネージメント、営業・マーケティングおよびIT戦略において、主にグローバル・スコープのプロジェクト・マネージャーを歴任。ライフサイエンス・製薬事業の責任者を経て、現在ヘルスケア・ライフサイエンス事業におけるコンサルティング、システム構築、システム保守サービス3部門の統括責任者。

 

医療現場におけるデータ活用はここまで進んでいる

──ヘルスケア・ライフサイエンス事業部が立ち上がってもうすぐ1年になりますが、両事業を統合した背景からお聞かせください。

これまで、病院をはじめとする医療施設向けの事業と、ライフサイエンス・製薬企業向けの事業は別組織で運営されていました。とはいえ、現場レベルでは若手の交流、勉強が行われていて、両事業が切っても切り離せない関係にあったことから、両事業を統合してシナジーを生み出そうということになりました。これはグローバル全体の流れですが、実際に両事業を統合したのは日本が最初です。

──日本では、それだけソリューションが共通化できる可能性があるのだと思います。実際、主要なソリューションにはどんなものがありますか?

医療分野では、大規模病院向けの電子カルテの導入が、現在に至るまで大きな柱として続いています。製薬系では、製薬会社向けにアナリティクスやERPなどの基幹系システムの導入コンサルティング、SI(システム・インテグレーション)事業が主要なソリューションです。

また、ヘルスケア・ライフサイエンス連携によるシナジー効果が見込める分野では、病院、製薬、IBMによる3社共同研究が挙げられます。例えば、病院の協力を受けて、電子カルテのデータを分析する研究プロジェクトに取り組んでいます。

金子達也氏

──電子カルテのデータ分析では、「IBM Watson(以下、Watson)」を活用した、大塚製薬との取り組みが代表的な事例ですね。

2016年6月に、大塚製薬との間で合弁会社である大塚デジタルヘルスを設立し、電子カルテの情報を自然言語処理で解析し、精神科医療分野での治療に役立てる取り組みを開始しました。同様のスキームでの検討が精神疾患以外でも進んでいます。例えば、そのうちの1つが血液癌等の病理画像解析です。慢性的な病理医不足によって、1人の病理医が年間3000件近く診断を任されているのが日本の現状です。Watsonが病理画像を解析し、病理医の診断を支援する、またはセカンド・オピニオンを助言する、このようなシステムの開発研究を製薬会社と大学と共同で取り組んでいます。

──自然言語処理だけでなく、画像診断にもWatsonが応用されるのですね。

特に初期段階の悪性腫瘍の発見に対して、Watsonの貢献が期待されています。実験では、初期段階の悪性皮膚がんと悪性黒色腫(メラノーマ)、単なるシミの診断率を比較しました。

Watsonに約3万点の画像データを読み込ませて分析させたところ、精度は約95%。人間が診断を行った場合の精度75%〜84%をかなり上回っています。現在はこうした技術が臨床で使えるものなのか否か、医療機関の協力を得て実証実験に取り組んでいるところです。

──患者のメリットは理解できますが、医師や病院にとってのメリットは?

Watsonによるメリットは、大きく「臨床視点」「研究視点」の2点から考えられます。

「臨床視点」のメリットは、経験豊富なドクターの頭にあるノウハウを、若手の医師や看護師が同じように共有できる「ノウハウの継承」が挙げられます。さらに、「研究視点」では、現在の医療技術を持ってしても解明が難しいガンという病気に対し、機械と人間がそれぞれ得意な分野から、解明に向けてアプローチできる点が挙げられます。

金子達也氏

 

「アナログ資産のデジタル化」から、さまざまな付加価値が生まれる

──電子カルテに話を戻します。紙の情報を電子化したということ自体は、イノベーションという点では特別なものではないように感じますが…。

電子カルテ化というのは、アナログ資産のデジタル化という点で、第一歩となるものです。今後、コグニティブやAIも、コモディティー化していくでしょう。その中で、IBMがどのような価値を提供できるのか…。例えば、最初からAIが組み込まれたアプリケーションを企業に使ってもらい、サービスをますますスケールアップ、ブラッシュアップしていただくことだと考えています。

カルテが電子化され、Watsonがあらかじめシステムに組み込まれていることにより、臨床の現場では、医師がキーボード入力だけではなく、音声で情報を入力してWatsonと対話したり、患者の疾患の可能性や治療方針候補について示唆を受けることで、医師はそのような情報を踏まえて患者と向き合うことが可能になります。知的なインターフェースを備えた診療録システム(=Cognitive EMR)によって、膨大な医療情報や知識を扱わなければならない医師の生産性が高まり、より多くの時間を「患者と向き合う」ことに使えるようになります。

──アナログ資産のデジタル化が、さらなる付加価値を生むという考え方は、他業種にも当てはまる話ですね。

医療分野以外でも、ガイドラインや規制が厳しい分野、例えば、食品や教育といった分野で大きな可能性があります。例えば、ガイドラインや規制をWatsonが読み込み、法令の準拠に対応していくとか、パーソナル・アシスタントのように活用していくシーンが進んでいくのではないでしょうか。

金子達也氏

もっと身近なところでは、金融分野での応用です。生命保険などの保険商品は、契約期間が10年20年単位と長期間で、かつ保険会社ごとに差別化が難しい分野です。新しい保険商品として、保険料の割引など、さまざまな特約を開発していく際、ヘルスケアのデータ解析というのは避けては通れない課題だと思います。

──では、進捗中の具体的な取り組みについてお聞きします。医療分野における先進的なユースケースはありますか?

日本医療研究開発機構の難治性疾患実用化研究事業で、京都大学ゲノム医学センターを中心とする研究グループと共同で、希少難治性疾患(いわゆる難病)を網羅するデータ活用基盤(レジストリ)構築に取り組んでいます。多くの難病は患者数が少なく、有効な治療法も確立されていません。そこで、コグニティブによるディープ・ラーニングを用い、難病の原因解明や治療法開発のためのモデル構築をお手伝いしています。構築されたモデルは、他の疾患にも展開していくことを考えています。

コグニティブ技術を活用するにあたっては、単にその技術を適用するという簡単なものではなく、研究者の方々と協調して育て上げていく必要があります。その過程においては、試行錯誤の積み重ねが必要になりますし、コグニティブ技術適用の範囲を正しく見極めることも必要となります。本事業は2016年度に始まりましたが、まずは訓練データによる学習、モデルの継続的な更新を行いながら、2020年度以降に事業化フェーズへと移行できるよう、事業計画のマイルストーンに沿って研究活動を進めているところです。

──研究分野以外の取り組みでは?

もう少しコンシューマー寄りの事例では、メディカル・ケアや健康増進の分野にコグニティブを活用する事例があります。

例えば、日本IBMの社員から1000人の希望者を募り、「Watsonウェルネス・コーチング」の開発に取り組んでいます。これは、健康管理系のモバイル・アプリの開発で、従来のアプリとの大きな差別化ポイントは、個人の遺伝子情報からパーソナライズされたメディカル・ケアを提供する点です。

──具体的には?

同じ健診データ、例えば、175センチ、70キロ、体脂肪率15%の男性でも、遺伝子情報は異なります。「Watsonウェルネス・コーチング」は、簡易的な遺伝子検査キットで収集した遺伝子情報をWatsonが解析し、検診データと個人の情報をかけ合わせて、病気発症リスクや体質の遺伝的傾向をコーチングしていきます。運動にも有酸素運動と無酸素運動がありますが、遺伝子解析により、自分が有酸素運動より無酸素運動のほうがより効果があるということがすぐにわかります。

金子達也氏

パーソナライズという意味では、個人の性格を加味しているのも特徴です。例えば、改善のためには叱られた方が効果的だとか、褒めて伸ばす方が効果的というように、コーチングの方法を変えることができます。遺伝子情報とWatsonによるパーソナライズで、多くの人に使ってもらえる工夫をしています。

 

日本の社会問題に対する解決策と、新たな価値創出を支援

──こうしたパーソナルなデータを活用したソリューションというのは、「人」に焦点を当てている点で、多くの企業にとって活用の可能性があるのではないでしょうか。

高齢化社会、労働力人口の減少という点で、企業にとって「社員の健康」というのは、今後ますます重要なポイントになってくるでしょう。

それ以外にも、ヘルスケアという切り口で考えれば活用範囲は広がります。例えば、不動産会社が高齢化社会における「住居のあり方」をデザインするために、ヘルスケア・ライフサイエンス分野のデータを活用しようとする事例もあります。今後、本業の中に「ヘルスケアのエッセンス」を加える企業が増えていけば、異業種がどんどんこの分野に参入し、エコシステムが確立されていくことが考えられます。

──「人」に関わるビジネスは、今後大きなビジネスチャンスがあるのですね。

IBMは、2017年3月に企業向けの気象情報提供サービスを開始しました。これは、「The Weather Company」が保持する気象データをWatsonが分析し、さまざまなビジネスに活用していくものです。天候が健康に及ぼす可能性なども分析対象となります。これについては、ぜんそくなどのように天候に影響を受ける病気に関して、気象データと疾患の相関関係を分析する研究プロジェクトを進めています。

金子達也氏

IBMは、コグニティブ・テクノロジーを一つ一つのインダストリー分野に特化させ、「BtoB」向けにソリューションを展開しています。さらに、上述の不動産会社のユースケースのように、それが企業の先にいるコンシューマーにも展開される「BtoBtoC」モデルへと波及。さらにその先には、パートナー・エコシステムが確立され、異業種同士がパートナーシップを結び、ビジネスが拡大していく「BtoBtoCtoP」モデルにつながっていくと考えています。

──最後に、ビジネスを再定義したいと考える経営層に向け、今後の展望を聞かせてください。

ビッグデータ活用や、コグニティブをはじめとするAI活用は、これまでアメリカが先導して、日本が追随していく構図でした。これが、最近では日本で、日本の会社によって、先進的な事例が発表できるようになってきました。

今後、超高齢化社会という日本の課題に対して、ヘルスケア、ライフサイエンスの領域から課題を解決するだけでなく、新たな価値を創出するような事例を発信していくお手伝いができればと考えています。

──先進国の中で、他の国がまだ取り組んだことのない高齢化という課題解決に先鞭をつけていく役割が期待されていますね。

ヘルスケアが本業の企業以外にも、高齢化という問題は多くの企業に当てはまる「共通課題」です。高齢化社会、若年労働人口減少といった課題解決のために、企業が生産性を高めていくためのお手伝いができると信じています。